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穴山信君 リンク集

穴山 信君 / 梅雪(あなやま のぶきみ / ばいせつ)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏の家臣で、御一門衆のひとり。幼名は勝千代(かつちよ)。母南松院殿は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる。妻は信玄の娘である見性院。壮年期に出家し梅雪斎不白と号した。武田左衛門とも称する。後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。は食べ頃となるが、ラ・フランスなど多くの品種は10月から11月初めにかけて収穫され、食べ頃となるのは11月〜12月である。

天文10年(1541年)、穴山信友の嫡男として生まれる。穴山氏は「武田」姓を免許される御一門衆に属し、信友・信君二代にわたり武田宗家と婚姻関係を結び親族意識が高かったと考えられている[1]。信友の頃には下山館を本拠に河内地方を領し、河内支配において武田氏による支配とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持っていた。 『甲陽軍鑑』に拠れば、川中島の合戦においては信玄本陣を守ったという、武田氏は信玄後期に駿河・遠江の今川領国への侵攻を行い織田・徳川勢力と対峙するが、信君は武田氏の駿河・遠江侵攻において活動が見られる。武田氏は永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始するが、信君は侵攻に際して内通を試みた今川家臣や徳川氏との取次を務めており、翌永禄12年に駿府を占領していた武田氏に対し相模の北条氏、三河の徳川氏が今川救援のために出兵すると同年4月に武田方は一時甲斐へ撤兵するが、この際に信君は興津横山城において籠城し、万沢氏や臣従した望月氏に対して知行を与え在地支配を試みている[2]。 駿河は第二次侵攻を経て武田領国化されるが、信君は山県昌景の後任として江尻城代となり、支城領としての「江尻領」を形成したという[3]。 『甲陽軍鑑』によれば、信玄の死後は従兄弟にあたる武田勝頼とは対立が絶えず、長篠の戦いの際には戦線を離脱する。これに怒った高坂昌信が勝頼に信君を切腹させるべきだと意見したが、親族衆の筆頭である信君を処断することで家中が分裂することを恐れ、勝頼はその意見を退けたという。 天正10年(1582年)2月25日、織田信長の甲斐侵攻に際しては河内領・江尻領の安堵・武田宗家の継承を条件に織田方に内通し、徳川家康を通じて信長に内応した[4]。 同年5月には信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土(滋賀県安土町)において信長に謁見する。。堺(大阪府堺市)を遊覧していた際の6月2日には京において信長が横死する本能寺の変が起こったため、家康と別行動で急ぎ甲斐に戻ろうとしたが、『三河物語』によると、金品を多く持っていた信君一行は、家康従者に強奪されることを恐れて別行動をとった結果、山城国綴喜郡の現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く) で落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたとされる[5](田原にて明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もあり)。 穴山氏は、嫡男である穴山勝千代(武田信治)が天正15年(1587年)に急死したため断絶している。

信君は武田滅亡に際して武田家再興を名目に主家から離反しているが、同じく信玄の娘婿でありながら織田家に寝返った木曾義昌や郡内領主の小山田信茂らと共に主家から離反した行動に関して、これを謀反とする否定的評価がある一方で、佐藤八郎など家名存続のため敢えて背いた情勢判断を正当視する好意的評価もある。 また、戦後の実証的武田研究においては戦国領主としての穴山氏や小山田氏の位置づけに関して様々な見解が示されているが、矢野俊文は穴山・小山田氏と武田氏の関係を連合政権であったとする見解を示し、信君や小山田信茂の離反は主家滅亡に際して個別領主の立場から離反に至ったとしている[6]。また、秋山敬は穴山氏歴代当主の武田親族意識の観点から信君の親族意識は特に強いものと指摘しつつ、信君の離反は武田家再興ではなく穴山氏自体の発展を意図したものであるとしている[7]。

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